発達障害

発達障害女子の幼児~小学生時代。やはり変わり者

こんにちは!アスペママのスモモ@aspe_sumomoです。

わたしは、昭和生まれの30代。大人になるまで、自分が発達障害だとは思いもしませんでした。

幼稚園に入った頃にはすでに、はっきりと周囲と自分の間に「違和感」を感じていました。

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発達障害女子の幼児期

自治体の健診で「障害があるかも」と指摘される

赤ちゃんの頃、わたしは抱っこされるのが大嫌いで、よくそっくり返っていたそうです。

目も合わず、親の顔も見ず、母乳は嫌いで、搾乳したものを哺乳瓶で飲ませてもらっていました。

自治体の乳児健診で、

「この子は目も合わないし、抱いても反り返る。知的障害があるかもしれないから、再検査に行ってください。」

と言われたそうです。

でも母は、

「そんなわけは無い」

と、再検査に行きませんでした。

幼稚園ではボッチ

幼稚園は、当時多くの子がそうだったように、年中組で入園しました。

4月上旬生まれのわたしは、すでに5歳。

体はひときわ大きく目立つのですが、先生の指示を聞きとるのが苦手でした。入園式でも、みんなが各教室へ移動したあと、ひとりでホールに取り残されていました。

不器用さ、運動の苦手さもはっきりしてきました。

みんなと踊ったり、運動するのが大嫌いで、

「なぜ、こんな恥ずかしくて面白くもないことをしなければいけないのか」

を理解することができませんでした。どうしても参加することができなかったときは、先生に体を揺さぶられながら怒られることもありました。

先生と親しくすることにも興味ない

幼稚園バスでは、みんながガヤガヤとおしゃべりをしていました。わたしは、

「なぜみんなが会話をしているのか」

が理解できませんでした。

2年間の登園で、バスの中でおしゃべりしたことは、ほとんどありませんでした。

いつの間にか、クラスでも仲間はずれになり、嫌われるようになりました。

休み時間に1人で絵を描いていると、先生が覗いてくることがありましたが、嫌でたまりませんでした。特に「先生と仲良くしたい」などとは思っていませんでした。

発達障害女子の小学1、2年生時代。やはり凸凹がある

幼稚園より学校の方が楽しい

小学生になり、担任になったのはやさしい女性の先生でした。

国語の勉強は楽しいものでした。算数は、一桁の足し算すら難しく、筆箱の底に鉛筆で〇を描いていました。

例えば、「2+3」なら「〇〇 〇〇〇」と描いて、全部の〇を数えるのです。

そのほかにも、先生の指示がいまいち理解できないときは、隣の子のすることをそっとのぞき見してしのいでいました。

授業中に立ち歩いて鼻をかんだりすることもあり、注意されていました。

それでも、学芸会では大きな声を評価されて主役の座を射止めたこともあり、学校生活で何か大きな問題になることはありませんでした。

小学2年生になる春休みに、父の仕事の都合で、北海道内のよその町へ引越ししました。

転校先ではよく怒られるようになる

引っ越し先の町は、方言も強く、子供たちの気質も全く違うところでした。

担任になった先生は、面白いおじいちゃん先生でしたが、わたしはこの頃からよく大声で叱られるようになりました。

初めての掃除当番で、先生に「机を拭いて」と言われたわたしは、1つの机をずっと一生懸命拭いていました。

「何やってんだ!!」

と怒鳴られました。

給食当番では、おかずを盛り付けをする作業がとても難しく感じ、ある日先生にお玉を取り上げられ

「あんたがやると、遅くてだめだ!!」

と怒られました。

同じ学年の男子集団から「デブ」とからかわれるようになりました。その男子集団の兄弟や、そのまた友達へと、からかいの輪は広がっていきました。暴力を受けることもありました。

わたしは、時には取っ組み合っていじめっ子と戦いましたが、その後の人生で、いじめやからかいがなくなることはありませんでした。

こちらの記事もどうぞ「いじめに立ち向かえ」「自分で『嫌』って言いなさい」は、「底辺のいじめられっ子」を知らなすぎる

発達障害女子の小学3、4年生。すでに「暗い子」扱い

どんどん「暗い子」になる

小学3年生でクラス替えがあり、担任の先生は40代の活発な男の先生になりました。

わたしにとってははじめての、ゲンコツなどの体罰をする先生でした(当時は体罰は当たり前でした)。

わたしは「指示」があまり理解できないので、先生の言うことに従うことができず、よく頭を叩かれました。

でも、言葉遣いは丁寧な先生で、生徒を「大人扱い」してくれる面もあり、わたしはその先生があまり嫌いではありませんでした。

その先生は、

明るい子 = 〇

おとなしい子 = ×

という方針でした。

わたしを含む、おとなしい子(特に、体育が苦手な女子たち)を「遅い4人組」と命名し、中でも特におとなしい子を、いつも

「声が小さい人」

と表現していました。その子は、小学2年生までは明るかったのですが、思春期にさしかかり、家庭が複雑だったこともあって、次第に物静かな少女になっていました。彼女は、高学年で不登校になりました。

クラスの子全体が、

「おとなしい人たち」

を、何か特別なもの・・・自分たち「普通の(明るい)子」とは、何か別のものを扱うかのようになって行きました。

男子の中ではからかわれているような男の子も、わたしのことは足で蹴ってきました。もちろん、それに対して怒ったり、やめるように言ったのですが聞いてくれませんでした。

先生は、いじめなどを訴えるときに

「〇くんに蹴られた」

などではなく、理路整然と、先生が納得いくように説明しなければ取り合わない、といつも言っていました。わたしは先生が納得いくような訴えをすることができませんでした。

そんな中で、

「わたしは、やっぱり『普通に生きているだけ』でだめなんだ」

と自覚した、決定的な出来事がありました。

「わたしはダメな子」とわかった決定的な要因

小学3、4年のクラスは持ち上がりで、担任の先生も同じでした。

その頃には、算数はかなり苦手になり、体育のできなさも際立っていきました。

わたしが『普通に生きているだけ』でだめなんだと自覚するようになった大きな出来事は2つです。

席替えで強烈ショックを受ける

ひとつ目は、3年生での初めての「席替え」。

先生の方針は、

・まず、班長が数人選ばれる(班長の選び方は覚えていません)。

・班長が、それぞれ順に「わたし(ぼく)の班に入りたい人!」とみんなに聞く。

・挙手した人の中から、班長が好きなメンバーを選んでいく。

というものでした。

今思い返せば、ものすごく残酷な方法のような気がしますが、当時のクラスは歓迎モードでした。好きなメンバーを選べますからね。

班長は、男子と女子の人数が半々くらいだったと思います。

わたしは、「とっても仲良し!!」とまで言える子は班長の中にはいませんでしたが、男子の班長の時は恥ずかしいので、女子の班長みんなに手を挙げました。

班長たちはどんどん仲良しの子を選んでいき、すでに決定した子たちと楽しそうに相談しながら、残りのメンバーを選んでいきました。

わたしはとうとう誰からも選んでもらえませんでした。

あとは、適当に「余った」子たちを、先生が各班に配当していきました。

からかいや、暴力はわたしにとって「当たり前」でしたが、さすがにこの時はあまりにもショックで、帰宅してから親に訴えました。

いつもは多くの場合

「あんたが気にしすぎ」

「そんなのよくあること」

と叱咤されがちだったのですが、この時は母が先生に話してくれることになりました(母はおとなしく控えめで、決して強い抗議などはしません)。

母が先生に話をした翌日、わたしは先生に呼び止められ、

「席替えのことショックだったんだろ?」

と聞かれました。

その後、クラス全体で「席替えのやり方」についての話し合いが持たれました。

わたしは手を挙げ、

「班長が好きな人を選ぶという方法では、選ばれなかった子は傷つく」

と発言しました。

別の男子が手を挙げ、

「今のやり方のままでいい」

と言いました(理由は色々述べていましたが、わたしはあまり理解できなかった&覚えていません)。

先生は、

「せっかく○○くんが言ってくれているんだし・・・(わたしは途中の説明があまり理解できませんでした)・・・このままのやり方でいこうと思います。スモモさんも、いいですね?」

と言われました。わたしはよくわからないけれど了承しました。

そのことがあり、元々からかわれやすく、いつもパッとしないわたしは家で父と「長い話」をしました。

父は、普段わたしが学校で付き合っている友達(『遅い4人組』を含む、勉強や運動の苦手な子たち)の名をあげ、

「そういうおとなしくて勉強のできないグループと付き合っていると、あんたまで『同じく勉強のできないグループ』だと思われる」

「友達を作るには、自分に『人から認められるようなこと』がなければならない。勉強や運動などを頑張ること」

など、かなり長い時間を話しました。

わたしは

「でも、この前新しい友達ができたんだよ。違うクラスの子と少し遊んで『友達になろう』って言ったんだ」

と、他の子に勇気を出して話しかけたことを言いました。

父は、

「友達の作り方はそうではない。遊んだり話したりしていくうちに、自然に友達になっていく。『友達になろう』などと言って作るものではない」

とあきれたように言いました。

また、長い話が終わりかけた頃、父に報告したかった「近所で見つけたきれいな花」のことを忘れないうちに話しましたが、

「話をそらすんじゃない!」

と言われました。

最後に、わたしはどうにか『人から認められるようなこと』を自分の中に見つけたくて、算数の授業でみんなと違う計算方法で答えを出し、先生に褒められたことを父に話しました。

父は、

「それなら、みんなも認めてくれるね」

と言いました。

でも相変わらず、クラスの「明るい子たち」からは見向きもされない生活なのです。

父の話した「友達の作り方」は、何か根本的にわたしと合わないんじゃないか、ということを感じていました。

でも、やはりわたしの「グズでのろいところ」「勉強や運動がパッとしないこと」「おとなしいところ」が悪いのだということを、はっきりと理解しました。

クラスレクリエーション

ふたつ目は、クラスのレクリエーションでのこと。

わたしはレクリエーションのような行事が大好きでした。

4年生のある日、クラスで「親子レクリエーション」がありました。

レクの内容は「百人一首大会」でした。この日のために、普段からクラスでも百人一首の練習をつんできていました。

わたしの母も、役員としてレクの準備や運営を行っていました。

百人一首は2つのグループに分かれて行われ、わたしは「おとなしい」友達と隣になって、懸命に百人一首の札を見ていました(上で書いた、不登校になった少女です)。

結局、札は取れなかったけれど、とても楽しいレクリエーションとなりました。

ところが家に帰った後、母が

「あんたは全然楽しそうじゃなかった!!」

と、すごく怒ったのです。

「あんたと隣の〇〇さんだけ、おもしろくなさそうにただ座っていて、影が薄かった!!」

「他の子たちは楽しそうにやっていたのに!!」

「せっかくのレクリエーション、みんな準備も頑張っていたのに!!」

と、どうして「わたしが楽しんでいなかった」ことになっているのかわかりませんが、ものすごく叱られました。

わたしは怯えてしまうと何も言い返せません。

「なんで!?楽しんでいたよ!?」

と言えるタイプではありませんでした。

そして、子供らしく騒いだり、はしゃいだりする感情表現ができず、「表情」を作ることも苦手で、

「楽しくなさそう」

「無表情」

「反省していない」

「図太い」

と、よく言われて叱られてきました。

とりあえず、わたしは「普通にしている」ことがもうダメなんだ、ということがわかりました。

発達障害女子と、クラス替え間際の奇跡

4年生の終わりころ、もうじきクラス替えという時に、わたしは漫画を描き始めました。きっかけは、先生の似顔絵をノートに描いたことです。それがみんなに好評だったのです。

漫画の内容は、

・嫌いな科目の教科書をボロボロに「いじめ」て、スッキリする。

という、めちゃめちゃ、ドタバタなものでした。

それがたいへん好評となり、「算数」「国語」などいろいろな教科書を「いじめ」るシリーズを描いていき、果ては「先生が嫌いなあなたへ」「学校が嫌いなあなたへ」などの話も描いていきました。

わたしは、溜まってきた漫画を、教室の壁に作った「レンタルボックス」に入れ、自由に読めるようにしました。

クラスの中心的な「明るい子」も、「おとなしい子」も、みんなが読んで笑ったり喜んでくれました。

『人から認められる』ってこういうことなんだ、と初めて感じました。

それはつかの間の奇跡で、クラス替えによってリセットとなりました。

発達障害女子の小学5、6年生

小学3、4年時の担任の先生が嫌いでなかったのは、

・言葉が丁寧で、威圧的ではない

・生徒を大人扱いしてくれる面がある(わたしのメモ帳を勝手に見て笑った男子に対し『赤ちゃんじゃなくてもう4年生なんだから、勝手に見られたくないものだってある』と叱ってくれたのが嬉しかった)

という理由だと思っています。

小学5年生で担任になったのは、わたしにとって「威圧的」に思える先生でした。

超苦手な先生が担任になる

担任になった先生は、ものすごく苦手に思っていた先生でした。小太りで眼鏡の、40代の男の先生です。

4年生の頃、担任が不在の時に、代わりにクラスへ来たことがあったのです。

腕組みをして椅子にふんぞり返り、給食の時に校内でかかる音楽も、わたしたちの教室ではかけてくれませんでした。

とにかくこわい先生、という印象でした。

その先生が担任になってからの2年間、いつも怖くて怖くてたまりませんでした。

怒り方も激しく、よく怒鳴り、男の子の頭をビターン!!と叩いたり、教室から蹴り出したり、馬乗りになって殴ることもありました。

わたしはビクビクしながらも、よく変なことをやらかしてしまい怒鳴られることがありました。大人になった今でも怖くて立ち直れません。

でも、子供たちからは人気のあるおもしろい先生でした。

言葉遣いが乱暴で、冗談やイジリがうまく、スポーツマンで、子供をのせるのがたいへ上手でした。まさに高学年むけの「ベテラン先生」でした。

だから、わたしが先生を苦手に思う気持ちを表現し合えるところがほとんどありませんでした。

ひとりだけ、上で書いた「不登校になった少女」だけは、同じく先生のことを苦手に思っていましたが、彼女は小学生の終わりごろにはほとんど学校へ来なくなりました。

小学校卒業は悲しくもなんともない

その先生が苦手だった理由は、怖かったからだけではありません。

思春期を迎え、心身の変化を受け入れるのもやっとだった当時のわたしに、体のことでとても傷つくことを言ったからです。

4月上旬生まれ。それを差し引いてもやはり大柄。5年生になる頃にはすでに「どっしりとした女性の体」になっていたわたしは、先生から

「おめえがこのクラスで一番誕生日が早えのか」

と聞かれ、「誕生日が一番早い」は本当にいろんな人からよく言われてきたので

(なんか嫌だな・・・)

と思いつつ、

「はい」

と答えました。すると、

「どうりでゴッツイ体してるもんな」

と言われました。

「はい」

と答えましたが、大きなショックを受けました。

精神的な成長を伴わない、大きな体。周囲の子より早くやってきた二次性徴。

とてつもないコンプレックスを突かれてしまい、帰ってから母に訴えましたが、いつものごとく

「ふん、そんなの」

と相手にしてもらえませんでした。

その他にも、体のことで許せない発言や行為をされましたが、他の子たちは「先生のそういうところ」をさほど気にしていないということもあり、誰とも共感できませんでした。

小学校に未練などなく、卒業は悲しくも感動的でもありませんでした。

発達障害女子の幼児~小学校時代・まとめ

昔のことを思い出すのはキツイ作業でしたが、今わたしは「現役小学生の、女の子」を育てています。

自分の中の「嫌な記憶」に早くけりをつけないと、どんどんわが子に自分を投影してしまっては、お互いにとって良くないと思っています。

また「今の幼児教育や小学校」は、当時とどう異なるのか比較する材料になれば幸いです。

 

中学・高校編へ続きます。

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